「失礼なんですけど、本当に視えているんですか」
初めてお会いした方から、そう聞かれることがあります。疑われているというより、霊視をする人に会うこと自体が初めてで、視えるというのが何なのか純粋に分からない、というニュアンスの質問です。
この記事では、そう聞かれたときに私が何と答えているのかを書いていきます。
先に結論を書くと、視えています、ただしそれが正しいかどうかは分かりません、と答えています。なぜその答え方をしているのかが、この記事の中身です。
視えています。ただし、正しいかどうかは分かりません
私はこの質問に、いつも同じ答え方をしています。
視えてはいます。けれど、それが正しいかどうかは分かりません。視えたことや感じたことをそのままお伝えしていますが、絶対にそうだという保証はできません。
はぐらかしているのではなく、これが私の持っている情報のすべてです。視えたものは視えた。それ以上のことは、私にも分かりません。
だったらそれは妄想ではないのか。そう言われたら、そうかもしれません、と答えています。私の中に浮かんだ映像や感覚が、私の頭が作ったものではないと証明する手立てを、私は持っていません。持っていないものを持っているふりはできない、というだけの話です。
保証できないと先に言ってしまう理由
保証できます、と言ったほうが、その場は安心されます。それでも言わないのは、保証した瞬間に、相手が自分で確かめることをやめてしまうからです。
この人が言うのだから間違いない。そう思ってもらえたら、鑑定する側としては楽です。けれど、そこから先に起きるのは、私の言葉を持ったまま自分では考えなくなる、という状態です。私はそれを、鑑定として失敗だと考えています。
あくまでも情報であり、その受け取るかどうかを決めるのはご本人だと考えています。だからこそ、渡す側が「これは一つの考え方であって、絶対的なものではない」と先に言っておく必要がある。保証しないというのは、その線を引くための言葉です。
判断を人に預けたくなる仕組みについては、「どうしたらいいですか」と聞く人へ|自分で決められない仕組みに書きました。
本物かどうかを決めるのは、私ではありません
では、なぜ保証できないのに、それでも視えると言えるのか。
お客様の反応です。
お伝えしたことに対して、それは確かにそうです、と返ってくる。思い当たることがある、と言われる。その積み重ねがあるから、私は視えていると言っています。
ただ、納得されたからといって、それが正しかったことにはなりません。人は、曖昧な言葉に自分の経験を当てはめてしまうことがあります。それは私が怖いと思っていることの1つでもあります。だから反応は、証明ではなく、現実と照らし合わせるための手がかりとして扱っています。
そのうえで言えるのは、本物かどうかは私が決めることではない、ということです。私が本物ですと名乗ったところで、それは自己申告でしかありません。お客様がそう感じてくださった、それだけです。だから、本物ですかと聞かれると、実のところ私自身がいちばん答えに困ります。
私がやってきたのは、視えたものを現実と突き合わせて、一致と不一致を数え続けることでした。当たっていたことより、どこがズレたかのほうを覚えています。その作業を続けてきたという事実だけが、私が自分について言えることです。
能力の種類は、持っているかどうかではなく、どれが強く出るかの話です
霊能力と呼ばれるものには、いくつかの種類があると言われています。
視覚として捉えるもの、音や言葉として受け取るもの、身体感覚として感じるもの、理由なく分かるもの、場所や物から受け取るもの。西洋ではクレアボヤンス、クレアオーディエンスといった語が使われ、日本語では霊視、霊聴、霊感、霊知といった言い方になります。
いま挙げたのは、どうやって受け取るかの話です。
それとは別に、霊媒やヒーリングという言葉があります。こちらは受け取り方ではなく、受け取った後に何をするか、どう関わるかを指しています。同じ一覧に並んでいることが多いのですが、層が違います。
そして、これらは決まった体系として整理されているわけではありません。誰がいつ定めた分類だ、と示せるものではなく、説明の便宜として使われてきた区分だと私は理解しています。5つに分ける人もいれば、6つに分ける人もいる。その程度のものです。
そのうえで私の実感を書くと、私が視てきた中では、どれか1つだけを持っている人というのは、あまりいませんでした。全部何かしらあって、その中のどれが強く出るかが人によって違う。そういうものだと考えています。
だから、自分は視覚型なのか感覚型なのか、という問いの立て方を私はしません。分類に自分を当てはめると、当てはまらなかった感覚を無視することになるからです。
私の場合は霊視と霊感が主ですが、匂いで分かるときもあります
私の場合、主になるのは霊視と霊感です。映像や形として視えることと、理由を言葉にできないまま分かることの、2つが多い。
ただ、それだけではありません。
匂いで分かるときがあります。霊臭と呼ばれるような、その場にないはずの匂いを感じることがある。逆に、何もないところで突然、花のような良い香りがすることもあります。どちらも、私の鼻が受け取っているのか、それとも別のところで受け取ったものが匂いとして出てきているのか、私には区別がつきません。
気を入れるような浄化や、軽いお祓いのような邪気払いをすることもあります。これは私の側の体感として書いているのであって、こうすれば必ずこうなる、という効果の話ではありません。
何をもって本物と言っていいのか、私には本当に分かりません。分からないまま、視えたことと感じたことを、そのまま言葉に落としている。それが私のやっていることのすべてです。
霊視で実際に何が視えているのかは、霊視では何が視えているのか|槍・岩・足枷という形の話に書きました。
声が聞こえるという相談には、先に医療機関の話をします
これは能力の話とは別に、必ず伝えていることです。
実際に声が聞こえる、という相談を受けることがあります。そのときに、霊的な原因だと決めつけることはしません。眠れていない、疲れが抜けていない、体調が続けて崩れている。そうした状態のときにも似たことは起きるので、まず医療機関で診てもらってください、という順番でお伝えしています。
付け加えると、病院で異常が見つからなかったことと、身体に何もないことは別です。原因が特定できなかったからといって、それが霊的なものだと決まるわけでもありません。身体のことは身体の専門家が先で、残ったものを、その後で視る。ここだけは動かさないようにしています。
確かめられることだけを、確かめてきました
視えるか視えないか、という問いに、私は決着をつけられません。証明する手立てがないからです。
代わりにやってきたのは、視えたものを現実と照らし合わせて、合っていたか外れていたかを数え続けることでした。外れたときに、どこで読み違えたのかを見に行く。これは証明ではありませんが、確かめることではあります。私が自分の鑑定に対して持てる根拠は、そこまでです。
本当に視えているんですか、と聞かれたら、これからも同じように答えると思います。視えています、ただし正しいかどうかは分かりません、と。その頼りなさを隠さないほうが、渡した材料を自分で扱ってもらえると考えています。
視えるという言葉を信じるかどうかより、その人が何を確かめてきたかのほうを見てください。私が何を確かめ、何を確かめられないままにしているのかは、はじめにに書いています。
PSYCHIC READING
その「なぜ」を、言葉にする
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