「霊視って、何が見えるんですか」
セッションの前後で、よく聞かれます。抽象的な光のようなものを想像される方が多いのですが、実際は違います。
形として視えます。それも、かなり具体的な形です。
槍。岩。足枷。ときには、生き物のような姿。
こう書くと作り話のように聞こえるかもしれません。ただ、私にとっては比喩でも象徴でもなく、実際に感知しているものです。そして、その形そのものが情報を持っています。何が視えるかで、何をするかが変わる。
この記事では、私が実際に視ているものを、そのまま書きます。
私はこう答えています|形として視えます
視え方は、お客様によって本当にさまざまです。
同じ「肩が重い」という訴えでも、視えるものは人によって違います。逆に、視えたものを手がかりにご本人にうかがうと、身体の感覚とぴたりと重なることが多い。
つまり、形はランダムに出ているのではありません。その方に起きていることの性質が、形になって現れている。私はそう捉えています。
だから私は、視えたものを「なんとなく重いものがあります」とはお伝えしません。槍なら槍と言います。そのほうが、ご本人の中で像が結びやすいからです。
実際に視えるもの
代表的なものを挙げます。これがすべてではありませんが、頻度としてはこのあたりに集まります。
槍|刺すような痛みを訴える方に視える
刺すような痛みがある、という訴えの方の体に、槍が刺さっているように視えることがあります。
槍の特徴は、一点に集中していることです。面ではなく、点。どこか一箇所に強い圧がかかっている状態を示していると私は考えています。
こうしたとき、ご本人の訴えも一点に集中していることが多い。「ここが痛い」と場所を指せる。全身がなんとなく重い、という言い方にはなりません。
刺さっているものが視えたときは、その方向を確認します。どこから来て、どこに刺さっているか。方向がわかると、原因の見当がつきます。
岩|肩や背中の重さとして現れる
肩や背中に鈍い重さがある、という方には、大きな岩がのしかかっているように視えることがあります。
槍との違いは、面で来ていることです。一点ではなく、広い範囲に均一に圧がかかっている。だから、ご本人も場所を特定できません。「肩のあたり全部」「背中全体」という言い方になります。
岩が視えるとき、多くの場合、その方は長期間その状態にあります。急に乗ったものではなく、少しずつ積み上がったものが固まって視える。
同じ「重い」でも、槍と岩では対処が変わります。だから、視え方の区別が要ります。
重しと足枷|前に進めないという感覚
足が動かない、前に進めないという感覚をお持ちの方には、ボーリングの球のような重しと、足枷がついているように視えることがあります。
この二つは、少し性質が違います。重しは自分の内側から生まれたものであることが多く、足枷は外からかけられているように視えることが多い。どちらが強く出ているかで、話す内容が変わります。
前に進めないという訴えは、状況の問題として語られがちです。仕事が忙しい、家庭の事情がある、と。ただ、視えているものが足枷のとき、状況そのものよりも、その状況を選び続けている構造のほうに原因があることが多い。
姿を持つもの|鬼や鵺のように視えるとき
小さな鬼のようなものが視えることがあります。何と言っていいかわからないような生き物の姿で現れることもある。強いて言うなら、妖怪の鵺のようなもの、と表現するのが近いかもしれません。
こうしたものが視えたとき、私は怖い話としてお伝えしません。姿を持って現れるということは、それだけ輪郭がはっきりしているということです。輪郭がはっきりしているものは、対処の手順も決めやすい。
かえって難しいのは、輪郭のないほうです。何とも言えない曇りが全体にかかっているとき、どこから手をつけるかを決めるのに時間がかかります。
モヤ|本人の違和感と一致する滞り
最もよくあるのが、モヤです。
相手が違和感を感じている場所に、そのままモヤが視える。本人が「なんとなくここが気になる」と言っている箇所に、実際にエネルギーの滞りが視えている。
このパターンが多いということは、身体の感覚と霊視で視えるものが、かなりの確率で一致しているということです。私はこれを、霊視の精度を確認する手がかりのひとつとして使っています。
つまり、ご本人の感覚は、たいてい当たっています。言葉にできていないだけです。
視えたものと、訴えが一致するとき
私が霊視で最も重視しているのは、一致と不一致の確認です。
視えたものをお伝えする前に、ご本人の自覚をうかがう。そのうえで、重なるかどうかを見る。重なれば、その線で進めます。重ならなければ、視え方のほうを疑います。
外れることもあります。そのときは、外れたと認めて視直します。当たっていることにして押し切ると、その方の時間を無駄にするからです。
こうした確認を積み重ねてきたので、私は視えたものを言い切ります。言い切れるのは、検証してきたからです。ただし言い切るのは「私にはこう視えました」という範囲までで、その先に起きることまでは断定しません。
自分では、この形が視えない
ここが、自分ひとりでのケアに限界がある理由です。
自分では「なんとなく重い」としかわからない感覚も、外から視れば形を持っています。形がわかって初めて、何をするかが決まります。
形がわからないまま浄化を繰り返すことは、傷の場所を確認せずに包帯を巻き続けるようなものです。一時的に楽になっても、根は残る。だから元に戻ります。
自分でケアする習慣が悪いのではありません。ただ、人は自分以外のことには気づきやすく、自分のことには気づきにくい。他者のエネルギーの変化や場の乱れには敏感に反応できても、自分の状態は、意識が抜けた瞬間から積み上がっていきます。
感情そのものが滞りの原因になっている場合については、こちらの記事も参考になります。
ただし、視えたものがすべてではない
ここは正直に書いておきます。
視えるものは、その方の状態の一部です。全体ではありません。私が視ているのは、その瞬間に最も強く出ているものであって、奥にあるものが後から出てくることもあります。
それに、視えたからといって、それが原因だと決まるわけでもない。結果として現れているだけの場合もあります。だから私は、視えたものを伝えたあとに、必ずご本人の話をうかがいます。
そして、体の不調については医療機関の判断が先です。霊視で視えるものと医学的な所見は別のものですし、私は前者で後者を代替できるとは考えていません。続く不調は、まず診てもらってください。
象徴として読むのか、構造として読むのかという話は、こちらに書きました。
▶ 占いであって、占いではない|象徴の奥にある「構造」を読む
形がわかると、動ける
視え方の話を長々と書いてきました。
伝えたかったのは、霊視が神秘的な能力だということではありません。視えたものには形があり、形には性質があり、性質がわかれば手順が決まる、という順序があるということです。
なんとなく重い、が「槍が一点に刺さっている」に変わると、人は動けるようになります。曖昧なものには手を出せませんが、形のあるものには手を出せるからです。
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