お供えを用意するとき、何を選ぶかは多くの人が考えます。
生前好きだったもの。季節のもの。日持ちするもの。丁寧に選んで、器に盛って、手を合わせる。
けれど、それが食べられる状態になっているかどうかは、あまり意識されません。
私自身、鑑定である経験をするまで、そこまで強い意識は持っていませんでした。良いものを選んで、きれいに供える。それで十分だと思っていました。
今日は、鑑定の場で実際に受け取ったメッセージから、お供えについて私が考えるようになったことを書きます。
お供えに「スプーンがない」と言われた
ある鑑定で、故人について何か言っていることはありますか、とご質問をいただきました。
そのとき最初に受け取ったのは、食べられない、という言葉でした。
同時に映像が入ってきます。カレーに、スプーンが刺さっている。ただ、その刺さっているスプーンだけが、やけに強く印象に残りました。伝えたいのはここだろうと解釈して、そのままお伝えしました。
こういうとき、視えたもの全部が意味を持つわけではありません。映像の中で、どこが際立っているか。その濃淡が手がかりになります。今回はカレーそのものより、明らかにスプーンの方が強かった。だから、そこを拾いました。
生前好きだった食べ物は、もしかしてカレーですか。それをお供えされていませんか?ただ、スプーンがないみたいで、食べられないと言っているんです。
そう伝えると、その方は思い当たる様子でした。
お供えは食べられる状態にするのがポイント
この経験から、私はお供えについて一つの考えを持つようになりました。
人が食べるときと同じ状態にする。
飲食物なら、箸を一緒に置く。お菓子なら、封を開ける。食べられる状態にしてあげることが、より良い供養になるのではないかと思っています。
これが正しい作法なのかは、正直なところ分かりません。私が経験から言っているだけです。宗派や地域によって、決まった作法もあるでしょう。
ただ、この視点で自分の家のお供えを見直してみると、意外と多いことに気づきます。缶や瓶のまま置かれた飲み物。袋を開けていないお菓子。器に盛っただけの料理。
どれも心を込めて用意されたものです。供える側は、良いものを選ぼうとします。生前好きだったものを探し、丁寧に並べる。そこには確かに手間がかかっています。
ただ、最後の一手間、つまり食べられる状態にするというところだけが、抜け落ちやすいのだと思います。
理由は想像がつきます。私たちは普段、供えるという行動を「置く」ことだと捉えているからです。仏壇や祭壇の前に、きれいに並べる。そこで完了する。
けれど、生きている人に食事を出すときは違います。器に盛ったら、箸を添える。飲み物を出したら、栓を開ける。当たり前にやっていることです。同じことをするだけで、置くという行動が、差し出すという行動に変わります。
お供えが「一緒に食事をしている」感覚に変わった
その方から、後日こんなお言葉をいただきました。
お供えが、一緒に食事をしているようで、楽しい気持ちになった。
私はこれが何よりだと感じました。
作法として正しいかどうかより、その方の中で供養の時間が変わったことの方が大きい。義務でお供えを置く時間から、一緒に食卓を囲む時間になった。
供養という言葉には、どこか厳粛な響きがあります。粛々と、正しく、間違いなく。そう身構えてしまう方も多いと思います。けれど、楽しい気持ちになったという感想は、それとは違う方向にあります。
私は、そちらの方が本来の形に近いのではないかと思っています。生きている間、その方と過ごした時間は、厳粛なものばかりではなかったはずですから。
形式ではなく、心がこもっているかどうか。目には見えないかもしれませんが、魂としてはそこにあります。
分かるときと、分からないときがあります
念のため書いておきます。
私は100パーセント故人の方とやりとりができるわけではありません。これは鑑定の中の一つでしかなく、人によって分かるときと分からないときがある、というのが正直な答えです。
だから私は、こういう場面で断定をしません。受け取ったものをそのままお伝えして、ピンとくるものがあるかを伺います。判断はご本人にお任せしています。
伝わってくるものが、必ずしも言葉の形をしているとも限りません。今回のように映像だけのこともあります。その中のどこが伝えたい部分なのかを読み取るのは、私の解釈です。だから断定はできません。
それでも、こうしてお伝えするのには理由があります。受け取ったものを黙って持っておくより、そのまま渡した方が、ご本人の中で何かと繋がることがあるからです。ピンとこなければ、それはそれで構わない。判断する材料の一つとして置いておいていただければ十分です。
お供えは毎日替えるべきか
お供えについて、よく聞かれることがあります。毎日替えなければいけないのか、という質問です。
私は、無理のない範囲でいいと思っています。
毎日きちんと替えられる方は、それでいい。週に一度の方も、思い出したときにという方も、それぞれの生活があります。大切なのは頻度ではなく、そのときに気持ちが向いているかどうかです。
義務感で毎日続けるより、月に何度かでも心を込めて手を合わせる方が、私は意味があると考えています。
そして、置いたものはいずれ下げます。下げたあとに自分でいただくことを、気にされる方もいますが、これも問題ないと思っています。同じものを一緒に食べたということになるので、むしろ自然な形ではないでしょうか。
供養は形式より心がこもっているか
お供えの作法には、たくさんの決まりごとがあります。
そのすべてに根拠があるかというと、私には分かりません。ただ、鑑定を通して感じているのは、決まりを守ること自体が目的になってしまうと、供養が義務に変わっていくということです。
義務になった供養は、続けるのが苦しくなります。できなかったときに自分を責める材料にもなる。それは故人が望んでいることではないはずです。
そして、負担になった供養は続きません。続かなくなれば、故人を思い出す機会そのものが減っていきます。厳密にやろうとした結果として距離が空いていくのは、本末転倒だと思います。
スプーンを添えるのは、決まりだからではありません。食べてほしいと思うからです。
その気持ちがあるかどうか。私が視てきた限りでは、伝わっているのはそちらの方です。
なお、お盆の時期に体が重くなる方や、お墓参りに行けないことを気にされる方も多くいます。そちらについては「お盆に気をつけること、気にしなくていいこと|霊視鑑定師の視点」に書いていますので、あわせてご覧ください。

