絶対に霊を信じない人がいる。
それ自体は、特別なことではないし、否定したいとも思いません。
人はそれぞれ、自分が安心して立てる世界観を選び、その中で生きているのだと思っています。
だけど、その論点だと、私の中に引っかかっている問いがあります。
それは、霊(魂)を信じないのなら、なぜ「生」はあるの?という、シンプルな疑問です。
「死んだら無になる」という説明への違和感
死んだら無になる。
意識は脳の作用にすぎない。
この世界は物質だけでできている。
このように考える方も多いでしょう。
こうした説明は、シンプルで理屈としてはとても分かりやすい。
けれど同時に、どこかで
「これ以上は考えなくていい」
という、思考を終わらせるための結論にも見えると思っています。
考えてもわからないことだし、仕方のないことだから、「無」になるという選択をしたのではないかと。
余計なことを考えなくも良いし、今だけを考えればいいので、その考え方は非常に健全的とも思います。
陰陽論から見る、生と世界の構造
私はこの世界を、陰陽論の視点で捉えてます。
陰と陽、可視と不可視、形あるものと形なきもの。
どちらか一方だけが存在する、という前提はありません。
形として現れているもの(陽)があるなら、
それを成り立たせている背景(陰)が必ずあると考えています。
生きている、という現象がある。
意識がある。
考えたり、怒り、悲しみ、恐れ、喜び、楽しみ、など様々な感情を選択する心がある。
寝ていたとしても、起きた時には意識がちゃんと戻る。
これって、よくよく考えたら不思議なことだと思うんです。
これらの現象があるからこそ、
「ただ生というものがあって、死んだら無になる」という一言で、説明しきれるものではないというのが私の答えです。
「無になる」という結論は、思想か、防衛か
私は、「見えない世界が絶対にあるから、その世界を信じてください」と言いたいわけではないですし、
「死後の世界の理解が、ある人とない人」そのような線引きをしたいわけでもないです。
ただ、私は「死んだら無になる」という考え方の方が、
この世界を健全に生き抜くための自己防衛ではないのかなとも思っています。
もし、死後も何かが続くとしたら。
もし、自分の生がこの一回で完結しないとしたら。
もし、見えない領域と常に接続して生きているとしたら。
そこには、責任も、不安も、問いも生まれる。
生きているうちでは理解できない、途方も無い波に飲まれかねないです。
生がある以上、この世界は一層ではない
不思議なことに、重力や電波のように「見えないが働いているもの」は、多くの人が当たり前に受け入れている。
感情もその一つです。
私たちは愛情も感じますし、その他の様々な感情を受け取って生活しています。
意識そのものも、目には見えません。
それでも私たちは、それを「あるもの」として扱っています。
それなのに、死後や見えない領域だけは、きっぱりと「無い」と断定するのは違うという考え方です。
霊視という言葉を使うと、
「スピリチュアル」「頭がおかしい人」
そんなレッテルを貼られることがあります。
けれど、私が見ているのは
不思議な世界でも、非現実でもないです。
現象の裏側にある構造。
言語化されていない情報層。
目に見える結果を生んでいる前提。
それを、ただ読み取っているだけです。
霊感というのは、ただ目に見えないエネルギーを感じとっているだけだと。
そのように私は捉えています。
生がある以上、この世界は一層構造ではないと思っています。
見える層と、見えない層が重なり合い、
同時に存在している。
それが現実です。
私はその前提で、世界を見ています。
物質的な視点ではなく、非物質的な世界を覗きみるものとしての、霊視という視点を使っているにすぎません。
信じる必要もないですし、理解しようともしなくていいと思います。
ただ、
「世界は本当に、見えるものだけで完結しているのか?」
その問いを、一度立ててみる余地はあると思っています。
それだけで、
生の見え方は、変わるはずです。

