霊視で受け取るものは、いつも意味の分かる形をしているわけではありません。
言葉で届くこともあれば、映像だけのこともある。そしてその映像が、私にはまったく何を指しているのか分からない、ということもあります。
鑑定を受けたことのある方の中には、突然よく分からないことを言われて戸惑った、という経験のある方もいるかもしれません。
今日は、そういう場面で私がどうしているかという話を書きます。
おじいさんが来ているような気がします
ある鑑定でのことです。
セッションの中で、その方のおじいさまの気配を感じました。確信というほどのものではありません。来ているような気がする、という程度の感覚です。
私の場合、こういう感覚は突然入ってきます。話の流れとは関係なく、ふっとそこにいるような感じになる。年齢や性別のような輪郭が先にあって、続柄まで分かることもあれば、分からないこともあります。
そのままお伝えしました。
そこから、おじいさまについて視てほしい、という話になりました。
打ち上げ花火と、松の木
絶対ではない、と前置きをした上で視ていきました。
そこで入ってきたのが、打ち上げ花火と、松の木の映像でした。
正直に言って、私には何のことか分かりませんでした。何か縁のあるものなのだろうという感覚はある。ただ、この二つがどう繋がるのか、その場では読めませんでした。
こういうとき、私は分かったふりをしません。そのままお聞きします。
私にはよく分からないのですが、このメッセージでピンとくるものはありますか。
「やっぱり分かるんですね」と言われて
その方は、こうおっしゃいました。
やっぱり分かるんですね。
おじいさまは、庭師をされていたそうです。松の木は、仕事そのものでした。そして打ち上げ花火が好きで、花火大会をいつも楽しみにされていた、と。
そう聞いて、私が感じたのは、当たったという喜びではありません。
なるほど、そう繋がるのか、という納得です。
辻褄が合った、という感じに近いです。バラバラに視えていた二つが、その方の記憶の中では一本の線として存在していた。視えたものには意味があった、ということが後から確認できた瞬間でした。
霊視のメッセージは、断片で届く
この経験は、私の中である理解を確かなものにしました。
視えたものに、意味がないわけではない。ただ、こちらには情報がないので気づけないことがある。
私はその方の人生を知りません。おじいさまが何をされていた方なのかも、何が好きだったのかも知らない。だから、松の木を視ても、それが職業を指しているとは分かりようがありません。
つまり、私の側で完結できる情報ではないんです。受け取った断片が、その方の持っている記憶と接続して、初めて意味になる。
考えてみれば、これは自然なことかもしれません。故人の側からすれば、伝えたい相手はご本人であって、私ではありません。私は間に立っているだけです。だから、二人にだけ通じる合図のようなものが届く。第三者が見ても分からないのは、当然といえば当然です。
だから私は、読み取って、解釈して、ご質問をします。答えを言うのではなく、材料を渡して確認していただく。それが正確なやり方だと思っています。
意味が分からなくても、そのまま伝える
意味の分からないものを口に出すことに、迷いはありません。
視えているものは事実だからです。 それが何なのかを解明することの方が先で、分からないから黙っておこう、という発想にはなりません。
とはいえ、これは鑑定を仕事にする前からずっとそうだった、という話ではあります。当時は、意味が分からないものを分からないまま渡すしかありませんでした。今は、そのプロセス自体が分かってきたので、解釈を加えてご質問するところまでできるようになりました。
やっていることの本質は変わっていません。受け取ったものを、加工せずに渡す。 そこだけは同じです。
「分かりません」と言われたときは
もちろん、伝えて分かりませんと言われることもあります。
そういうときも、私は取り下げません。受け取っているものに間違いはないからです。間違っているとすれば、それは私の解釈の方です。
だから、別の読み方がないかを何度も検証します。この映像は、本当にその意味なのか。別の角度から見ると、何を指しているのか。
そうしているうちに、ふっと落ちる瞬間があります。私の中でも、相手の中でも同時に、そういうことかという共通の理解ができる。すぐに分からなくても、後日繋がることもあります。
この検証を続けてきたことが、今の私の土台になっています。感覚だけで語ってしまえば、外れたときに何も残りません。けれど、なぜそう視えたのかを毎回確認していくと、視え方と現実の対応が少しずつ蓄積されていきます。
すぐに答えが出ないことを、私は失敗だとは思っていません。情報が足りていないだけです。
受け取ったものに、嘘はつかない
私は100パーセント視えるわけではありません。人によって分かるときと分からないときがあります。これは正直な話です。
だからこそ、視えたものについては嘘をつかないと決めています。
分かるふりをして、それらしい話に整えることもできます。相手が喜びそうな方向に寄せることもできる。でもそれをやってしまうと、視えたもの自体の価値がなくなります。
分からないものは、分からないまま渡す。
一見すると不親切なやり方かもしれません。けれど、私の解釈で整えてしまったら、その方の記憶と接続する機会そのものを奪うことになります。
打ち上げ花火と松の木を、そのままお伝えしたから繋がった。私が意味を作ってしまっていたら、庭師という答えには辿り着けなかったはずです。
もし鑑定の場で、意味の分からないことを言われたら、その場で無理に納得しなくて構いません。持ち帰って、家族に聞いてみる。古い写真を見返してみる。そうやって、後から繋がることもあります。
断片のまま渡されたものは、受け取った側にしか組み立てられません。組み立てる鍵を持っているのは、いつもご本人の方です。

