「神様に呼ばれて、神社に行ってきました」
スピリチュアルの世界で、よく聞く言い方です。
では、本当に神様が呼んでいるのでしょうか。
私は、そう簡単には考えていません。体験そのものを否定するのではなく、そこにどんな意味をつけているかを、一度見てみてほしいと思っています。
神社に行きたいと感じた。何か縁を感じた。理由はわからないけれど、足が向いた。
その感覚は本当のことだと思います。私自身にも、そういうことは起こります。
ただ、この言い回しには、ずっと違和感がありました。今回はその違和感の正体について書きます。
私はこう考えています。主語が、すり替わっている
先に結論を書きます。
「神様に呼ばれた」と言った瞬間、主語が入れ替わっています。
起きたことは「自分が行きたくなった」です。それが言葉にされるとき「神が自分を呼んだ」に変わる。動いたのは自分なのに、動かしたのは神様ということになる。
私は「縁を感じたから行った」が正確な表現だと思っています。それで十分ですし、その方が誠実です。
感覚そのものは否定していません。ふと行きたくなる、というのは実際に起こります。理由が言葉にできないまま足が向く。それは私も経験しています。
問題は、その感覚に名前をつけるときの向きです。
なぜ、主語の向きにこだわるのか
言葉の細かい話に見えるかもしれません。でもここは、思っているより大きな違いを生みます。
主語が自分にあるとき、行動の責任も自分にあります。 行きたくなったから行った。良かったなら自分が選んだ結果だし、何もなかったならそれも自分の判断です。
主語が神になった瞬間、それは外側の出来事になります。 呼ばれたから行った。行かされた。自分の意志ではなくなる。
これを続けていくとどうなるか。自分で決めることが減っていきます。 サインを待つようになる。合図がないと動けなくなる。
見えないものと関わることは、本来なら自分の感覚を信じる方向に働くはずです。けれど「呼ばれた」という言い方は、逆の方向を向いています。自分の感覚を、外側の意図に置き換えてしまう。
「呼ばれた」「選ばれた」という言葉の裏には、自分を特別な存在として位置づけたい気持ちが見え隠れします。それは霊的な感覚を育てることとは、方向が逆だと私は考えています。
霊視で視ているのは、特別さではありません
私が霊視で視ているのは、その人が特別かどうかではありません。
今どういう状態にあるか。何が滞っているか。どこに原因があるか。そういう仕組みを読んでいます。
そのうえで、正直に書きます。
「選ばれた」と思っている方を視ると、多くの場合それは勘違いだと感じます。
ただし、それを本人に伝える必要があるとは思っていません。私が黙っていることで困る人はいませんし、指摘したところで、その方の現実が良くなるわけでもない。だから、視えたことを、必ずしも全部言う必要はないと考えています。
私自身の霊視も、勘違いかもしれません
他人の体験を勘違いだと感じる以上、私自身の霊視も、勘違いでしかないのかもしれません。 その可能性を、私は否定できません。
ただ、それでも「何かを感じる」その感覚に嘘はありません。
たとえば、相談に来られた方の足元に、黒い影が視えることがあります。
確認すると、足が痛いとおっしゃる。ずっと冷えていると、そう話されます。
そこに霊的な処理を施すと、痛みが軽くなったり、足首の周りがぽかぽかすると言われることがあります。長い間冷えが続いていたという方には、とても驚かれたことを覚えています。
そういう話が、一度だけではないということです。
もちろん、体調のことなので、続くようなら医療機関で診てもらうのが先です。私は医療行為として扱っているわけではありません。 私が視ているのは、そのうえで残る部分についてです。
それでも、こうした一致が積み重なってきたこと。それ以外にも理由が多々あること。その積み重ねがあって、私は霊視鑑定師として名乗れるようになりました。
自分の感覚が絶対だと言うつもりはありません。ただ、確かめ続けてきたという事実だけは、自分の中にあります。
本当に視えている人ほど、大袈裟に語らない
もう一つ、感じてきたことがあります。
私が見てきた限り、日常的に視えている方ほど、大袈裟に語らなくなります。
理由は単純だと思っています。毎日あることは、特別ではなくなるからです。 日常的に起きていることを、人は大袈裟には語りません。
朝起きたことを、劇的に語る人はいません。それと同じで、いつもあるものについては、言い方が自然になります。
逆に、必要以上に大層な言い方になるときは、それがその人にとって日常ではないということかもしれません。稀にしか起きないから、印象が強く残る。強く残るから、大きく語りたくなる。
これは能力の有無を判定する話ではありません。語り方の温度は、その体験がその人の中でどれくらい日常かを映す、というだけの話です。
それでも、感じたことは本物です
ここまで読むと、私がこういう体験を否定しているように見えるかもしれません。そうではありません。
神社という場所で、説明のつかないことは起きます。 私自身、参拝を終えた瞬間に風のない日に風を感じたことがありますし、誰もいない山奥にある祠の中から柏手のような音を聞いたこともあります。
それらは確かに起きました。だから「気のせいだ」とは言いません。
神社で起きる現象そのものについては、神社の人払いとは何か、霊視鑑定師が現象の正体を答えるに詳しく書いています。
私が言いたいのは、現象と、その現象に乗せる意味は別だということだけです。
自分の中に、留めておけばいい
では、そういう体験をしたとき、どうすればいいのか。
表立って言う必要はない、というのが私の考えです。
感じたことは、自分の中に留めておけばいい。誰かに認めてもらう必要も、証明する必要もありません。言葉にした瞬間に、意味が乗ってしまうからです。
黙っていても、体験そのものは減りません。むしろ、説明しなくていい分だけ、そのまま持っていられます。
そしてもし言葉にするなら、起きたことをそのまま言うのがいいと思っています。
「神様に呼ばれた」ではなく「なんとなく行きたくなって、行った」。 「選ばれた」ではなく「静かな時間だった」。
それで十分です。削っても、体験は何も減りません。
特別である必要は、どこにもない
私がこの仕事で、自分に課していることがあります。
視えたものを、自分の都合のいいように解釈しないこと。
感じたこと、視えたことをそのまま伝える。それが気持ちのいい言葉でなくても、相手が聞きたい言葉でなくても。
「あなたは選ばれた存在です」と言えば喜ばれます。でも私はそれを言いません。言えないというより、言わないと決めています。
そういう言葉は、その方の現実を変えないからです。
縁を感じたから行った。静かな時間が訪れた。その中で何かを感じた。
それで十分です。特別である必要は、どこにもありません。
不思議な体験を「自分が特別である証明」としてではなく、「自分の内側を知るきっかけ」として使えるようになったとき、その感覚は本当の意味で育ち始めると私は思っています。
なお、逆方向の現象と解釈については、自分が行くと人が集まるのは本当か|霊視鑑定師が考える解釈の癖にも書きました。

