「自分が入った店には、なぜか人が集まってくる」
そういう話を聞くことがあります。閑散としていた店に入ったら、後から次々と人が入ってきた。何度もそういうことが起きる、と。
そして多くの場合、それは自分に何か力があるからという文脈で語られます。
実は私自身にも、同じことは起きます。急に人が来たな、と感じることがある。
先に、結論を書きます。
「自分が行くと人が集まる」という現象だけでは、特別な力の証明にはなりません。 そもそも、それが本当に起きているのかを確かめる手段が限られています。
ただし、自分の意識や状態が、周りとの関係に作用することはあると私は考えています。ここは私の見方の核心にある部分です。
なぜそう考えるのか。順に書いていきます。
そもそも、誰がそれを確かめられるのか
まず、いちばん基本的なところから。
その店に人が集まったかどうかを判断できるのは、店の人だけです。
自分は今日初めてその店に入った。普段どれくらい人が来る店なのか、知りません。たまたま入った時間が、その店のピークに向かう時間だったのかもしれない。前の客が出て、次の客が入るまでの谷間だったのかもしれない。
比較する基準を持っていないのに、変化を判断している。 ここが最初の問題です。
もし店の人から「あなたが来た後は、いつも人が入るんですよ」と直接言われたなら、話は変わります。それは基準を持っている人の観察です。そういうことが繰り返し起きているなら、その人は何かを持っていると言えるのかもしれません。
でも、そう言われた経験がないなら。自分の中だけで完結した判断です。
偶然は、思っているより重なる
もう一つ、単純な話をします。
時間帯の要因があります。 昼時、夕方、雨上がり。人が動く時間には人が動く。自分がその時間に入っただけということは、普通に起こります。
そして人がいる場所には、人は入りやすくなります。 誰も入っていない店より、何人か入っている店の方が入りやすい。これは呼び水として働きます。そこにいるのが自分でなくても、同じことは起こる。
さらに言えば、印象に残るのは「起きたとき」だけです。人が集まらなかった日のことは覚えていません。集まった日だけが記憶に残る。それが何度か重なると、いつもそうだという実感になります。
私自身にそういう感覚が起きたときも、私はこう考えています。たまたまが重なっただけだろう、と。
それでも、意識は現実に作用する
ここまで読むと、私がこの現象を否定しているように見えるかもしれません。そうではありません。
冒頭で書いた、もう一つの答えがここです。霊的な視点から言えば、意識は現実に作用します。
自分は人を引き寄せる。そう思っている人の周りでは、実際にそう見える現象が起きます。これは事実だと私は考えています。
そして面白いのは、それが勘違いから始まっていても、作用するという点です。
最初は偶然だったかもしれない。でも「自分にはそういう力がある」と認識した時点で、その人の状態が変わります。堂々とする。人の目を気にしなくなる。場に対して開いた状態になる。 その状態は、実際に人を引き寄せる方向に働きます。
勘違いが自分の認識を変え、変わった認識が現実に作用する。結果として、事実になっていく。
だから私は「それは勘違いです」と切り捨てません。切り捨てられるほど単純な話ではないからです。
では、何が問題なのか
問題は、その解釈がどこに向かうかです。
「自分には人を集める力がある」で止まっているなら、実害はありません。むしろ良い方向に働くこともある。
問題は、そこから「だから自分は特別な存在だ」に飛んだときです。
私は霊視の仕事をしていて、この飛躍を何度も見てきました。そして気づいたことがあります。
逆方向の現象でも、同じ結論に着地するのです。
神社で人がいなくなる。人払いと呼ばれる現象です。これも「選ばれた証」として語られます。
人がいなくなるのも、人が集まるのも、方向が正反対なのに、同じ意味が乗る。
そうなると、現象の側ではなく、乗せている解釈の側に癖があると考えた方が自然です。何が起きても、自分が特別である証明として読む。そういう読み方の型が先にあって、現象は後から当てはめられている。
人払いという現象については、神社の人払いとは何か、霊視鑑定師が現象の正体を答えるに書きました。
特別であることを証明しなくていい
なぜ人は、自分が特別だと証明したくなるのでしょうか。
私の見立てでは、その必要を感じているときです。今のままの自分では足りない。何か根拠が欲しい。だから、外側で起きた出来事を証拠として集める。
その気持ちは分かります。私自身、自分の感覚に確信が持てなかった時期があります。誰かに認めてもらいと思ったことがあります。
けれど、外側から集めた証拠は、外側の出来事に左右されます。人が集まった日は自信が持てて、集まらなかった日は不安になる。 それは基準を自分の外に置いている状態です。
現象を証明に使うのをやめると、現象はただの現象に戻ります。人が集まったなら、それは今日そうだったというだけ。 意味を乗せなくても、何も減りません。
現象より、そのときの自分を見る
では、そういう現象が起きたとき、どうすればいいのか。
そのとき自分がどういう状態だったかを、思い出してみてください。
機嫌が良かったか。開いていたか。人に興味を向けていたか。逆に、何かに追われていなかったか。
意識が現実に作用するという前提に立つなら、見るのは現象ではなく、そのときの自分の状態です。現象は結果であって、原因は自分の側にあります。
「自分は特別だから人が集まった」ではなく、「あのとき自分はこういう状態だったから、そう見える現象が起きた」と読む。
この読み方なら、再現できます。 特別かどうかは変えられませんが、状態は変えられるからです。
自分の状態がどうエネルギーとして働くかについては、特定の人と会うと疲れるのはなぜか|霊視で視える念の正体にも書いています。
判断は、いつでもご自身のものです
最後に整理します。
「自分が行くと人が集まる」という現象は、それだけでは特別な力の証明にはなりません。 その現象は、確かめる手段が限られています。店の人に言われたのでなければ、比較の基準がありません。偶然が重なっただけということも、普通に起こります。
ただ、そうした現象が起きる背景に、自分の意識や状態が関係している。 それは私の見方の核心です。勘違いから始まったとしても、認識が変われば状態が変わり、状態が変われば起きることも変わる。その意味では、事実になっていきます。
そこから「自分は特別だ」に飛ぶ必要はありません。飛ばなくても、何も失いません。
私はこう考えていますが、これは私の見方です。どう判断するかは、ご自身のものです。

