「あなたには霊感がない」
ある霊能を学ぶ場で、面と向かってそう言われたことがあります。しかも、他の人がいる場でした。
私が鑑定を仕事にするより前、占いを本格的に学び始めるよりも、さらに前の話です。
今日は、その言葉をどう扱ってきたのかと、そこから見えてきた「誰の言葉なら受け取れるのか」という話を書きます。
そもそも、確かめに行っていた
そこに参加した理由は、はっきりしていました。
自分の見立てが正しいのかを知りたかった。もっと言えば、自分が視ているものが一体何なのかを知りたかった。
子どもの頃から感じていたものはありました。ただ、それが何なのか、名前も仕組みも分からないままでした。分からないものを抱えたまま生きていると、判断の基準が持てません。だから、それを扱っている場所に行けば、答えが分かるだろうと思ったんです。
つまり私は、答え合わせに行っていたわけです。
そこで返ってきたのが、冒頭の一言でした。
笑って誤魔化した
そのとき私が取った行動は、笑って流すことでした。
反論もしていませんし、その場で問い返してもいません。空気を壊さないように、なんとなく受け流して終わりです。
理由は単純で、自分より上の立場の人が言うのだから、そうなんだろうと思ったからです。
こちらは学びに来た側で、相手は教える側です。その構図の中では、判断の基準はあちら側にあります。自分の中に基準を持っていなければ、その場でいちばん強い基準に従うしかありません。
そして厄介なことに、笑って流した時点では、傷ついた自覚すらありませんでした。これが、あとから静かに効いてきます。
それでも、感覚には嘘をつけなかった
言われたことを受け入れたつもりでいました。
けれど、疑問だけは消えませんでした。
じゃあ、私が感じ取っているこれは何なのか。
視えているものがある。感じているものがある。それは、否定されたからといって消えるものではありませんでした。存在そのものは、そこにあり続ける。
同時に、諦めもありました。才能がないと言われたものを、人に提供するサービスにはできない。そう考えるのが自然でしたし、当時は本業がありましたから、焦って何かを決める必要もありませんでした。
だから私は、表に出さないという選択をしました。
感覚は消せない。でも、看板にはしない。その状態のまま、ひたすら内観を続ける期間に入っていきます。簡単に切り替えたわけではありません。長い時間がかかりました。
この期間にやっていたのは、自分に問い直すことだけです。今これは、本当に視えているのか。それとも、そう思いたいだけなのか。誰にも見せないので、都合よく解釈しても誰も困りません。だからこそ、自分で自分を疑う必要がありました。
占術に絞ったのは、その言葉があったからです
代わりに向かったのが、東洋占術でした。
これは前向きな決断というより、消去法に近い動きだったと思います。霊感がないと言われたのだから、感覚に頼らない方法を身につけるしかない。生年月日から構造を出す占術は、感覚の有無を問いません。学べば、誰でも同じ答えに辿り着けます。
また、ちょうどその頃に別のところで疑問がありました。それはビジネス書を読んでも、大成された方の話を聞いても、必ずと言っていいほど「運」という言葉が出てくる。実力や努力の話をしている人が、最後にはそこへ辿り着く。
うまくいっている人ほど運という言葉を使うのなら、その運とは一体何なのか。徹底的に調べたいと思いました。それも東洋占術を学ぶことになった大きなきっかけの一つです。
結果として言えば、この回り道は無駄ではありませんでした。
感覚だけで語ることを避けたおかげで、私は必ず現実と照らし合わせる癖がつきました。なぜこの選択で流れが変わったのか。なぜこのタイミングで停滞が起きたのか。一致と不一致を、ひとつずつ確認していく。
否定されたからこそ、検証する習慣が身についたとも言えます。
雑談のつもりが、当たっていた
鑑定を重ねる中で、自分でも説明のつかないことが増えていきました。
あるとき、相談に来られた方の足のあたりが黒く視えたことがあります。同時に、その方が足をぶつけている映像が入ってきました。
「どこそこの、こういう場所で足をぶつけませんでしたか」
そう聞くと、怪訝な顔をされました。
「え、その話しましたっけ」
していませんでした。私が勝手に受け取っていたのです。そのときは深追いせず、「なんとなくそんな気がしたので」と言って話を終わらせました。
失せ物の相談を受けたときも、似たようなことがありました。「◯◯の◯◯にあるんじゃないですか」と声をかけたら、実際にそこから出てきた。
大事にしていたのは、断定しないことです。「あります」ではなく「あるかもしれませんね」。あくまで雑談の温度感です。
それでも、雑談として話したことが、実際にそうだったという場面が積み重なっていきました。
否定された感覚が、現実と一致し続けている。 その事実だけが残っていました。
答えは、自分の中にしかない
今なら分かります。
才能があるかないかは、他人が決められるものではありません。
あのとき私は、自分の外側に答えを取りに行きました。そして、外側から返ってきた答えを、そのまま自分の結論として持ち帰った。判断を預けたんです。
ただ、あの頃の自分を責める気にはなりません。
なぜなら、自分が今どの段階にいるかは、自分ではいちばん見えにくいからです。最初は誰でもそうです。基準を持っていないから、確かめに行く。確かめに行った先で、そこにある基準を採用してしまう。この仕組みは、私に限った話ではないと思います。
自分のことが少しずつ視えるようになって、ようやく自分の現在地がつかめるようになる。
大事なのは、誰の言葉なら受け取るかです
だから私は、こう考えるようになりました。
すべての言葉を受け取る必要はない。けれど、誰の言葉なら受け取るのかは、自分で決めていい。
あのとき私が受け取ってしまったのは、その人が「上の立場だったから」でした。相手が何を根拠にそう言ったのか、私は一度も確認していません。確認しないまま、肩書きだけで判断を委ねた。
言葉の重さは、立場では決まりません。その人が何を見て、何を根拠に言っているのか。そこを見ないまま受け取ると、他人の基準で自分の可能性を閉じることになります。
同じ理由で、私は鑑定でも断定を避けます。私が伝えるのは、今どこで流れが滞っているかという現在地であって、あなたが何者であるかという判定ではありません。判定を下せる立場に、そもそも誰もいないと思っています。
もし今、誰かの言葉で自分の何かを閉じかけているなら、一度だけ確認してみてください。
その人は、何を根拠にそう言ったのか。
そこが答えられないなら、その言葉はまだ、受け取らなくていいものです。

